子どもを守る
「子どもを守る」
言葉で言うのは簡単です。
でも本当の意味で子供を守るってどういうことだろう?
最近、このことをあらためて考えさせられることがありました。
「子供のために」と言えば、なんとなく正当化される!?
「子供のために」と言えば、否定はされないから!?
でも、「子供のために」と言っている大人が実は一番逃げています。
「子供を守る」のではなく、本当は「自分を守る」の間違いではないの?
本当に体を張って子供を守っているの?
責任の所在を確認すると目線をそらしてしまう。
「子供を守る」って、そんなに簡単なことではないはず。
先日の朝、登校する子供たちを見守ることにしました。
元気のなさそうな子供たちも、こちらから挨拶すると
「おはようございます」と、声を返してくれた。
以前、「子供が全然挨拶をしていない」というある大人の意見に対して、
「それは、大人が挨拶していないから」と、毅然と応えたある保護者のことを思い出しました。
体裁や、恰好や、立場。
ピュアな子供たちの感性に比べて、私たち大人はこんなつまらないことに縛られて本来の大人としての役割を忘れてしまっているような。
もっと、体を張って、がむしゃらに、シンプルに大人としてできることを今こそするべきだと、自分にも言い聞かせています。
そうしないと、子供たちにとって「子供を守る」と言っている大人が、一番信用できなくなってしまうね。
幸い、娘が通う小学校の校長先生は、体を張って「子供たちを守る」姿勢がシンプルに伝わってくる、心から尊敬できる教育者です。
この校長先生と知り合えたことは、本当に貴重な出会いです。
ところで、「子供を守る」と言う意味では、今我が家に最高のお手本の親がいます。
我が家のこんなところに巣を作り、先日ひなが誕生しました。
体を張って子供を守り、どこから探してくるのか頻繁にえさを与え、何度も何度も飛び立っていく姿を見ていると、あらためて大人としての未熟さを痛感。
非常にデリケートな時期だと思うので、近くから撮影するのは1枚と決めて撮った画が冒頭の写真になりました。
この画を見ていると、親が子を守り、親の愛情を一身に受けた子供たちが、いずれは巣立っていく光景が目に浮かびます。
あまり様子を見ているとツバメの夫婦は警戒するので、なるべく見ないように心がけているのですが、リビングのソファに座っていると、何度も何度も子供たちにご飯を与えに帰ってくる夫婦の姿が、部屋の壁に影となって映し出されます。
娘が言った。
「あっ、もう帰ってきた!」
「ツバメのお父さんとお母さんってスゴイね!」
ツバメのひなたちが無事に巣立っていくことを願う。
我が家のひなたちは、いつかは巣立っていくのかな?
よく分からないけれど、その前に、自分が体を張って子供を守り、現実から逃げないようにしないとねっ!